建国初期の蜀を支えた人材は荊州という、当時の政治の中心地から南に下った地方で得られた。
ここには、多くの知識人が中央の戦乱から逃れてやってきていた。いわゆる清流派と言われる人材達だ。
中央で、曹操が「唯才」というスローガンを掲げて、能力のあるものを抜擢し、それまで大切にされてきた儒学というものを(相対的に)軽んじるようになったため、儒学の思想を大切にし、かつ能力のある人々は、中央を離れ、荊州に集ってきた。
いってみれば、曹操の思想に合わない中央の人が集う場所が荊州になっていたのだ。
劉備はこういった外部環境を利用し、漢朝復興というビジョンと天下三分の計という戦略を掲げ、人材を集め、中央から見れば未開の土地である蜀の地を落とし、建国する。
三国時代と言われるが、その実、呉と蜀を合わせた国力よりも、魏の国力は優っていたという。
広大な中国大陸ではあるが、その実、人が住み、経済を産み出すことが出来るエリアは限られている。
その大半を抑えていたのが魏だ。漢朝末期の人口記録からみれば、魏:呉:蜀の国力比は6:2:1といったところだ。魏から見れば、蜀の国力は時の王朝に背く、一反乱軍に過ぎないものだった。
魏は中央を抑え、能力主義の人材登用制度を整え、人材が集まる構造を創り上げた。
国力では圧倒的な差があったが、呉は揚子江(長江)、蜀は山々の天険に守られ、国力比以上によく国を守った。
しかし、蜀が掲げたビジョンは漢朝復興。漢朝の権威を重んじるものは、時代の流れとともに少なくなっていく。自然、「漢朝復興」の名のもとに集う人士も少なくなっていく。
本来、国力に劣る蜀に残された道は、蜀を建国した勢いを持っての電撃的な進軍だったろう。
漢中を落とし、荊州に残る関羽とともに乾坤一擲、魏を撃つ。その千載一遇のチャンスに劉備(そして、諸葛亮・法正以下幕僚達)は賭けたわけだが、呉の計略により、関羽が拠る荊州は奪われてしまう。義兄弟を殺された怒りに任せ、劉備は戦の矛先を呉に向けるわけだが、、、。続きを読む »