「時間が経つにつれ、深く重くなっていく後悔ってある?」
突然の質問に僕はとまどい、少しだけビールを飲み、口に手をあて考える。口に手をあてるのは小さい頃からの僕のくせだ。

「えぇと、そうですね。あると思います。僕は後悔だけは人一倍しているほうだと思います。受験に失敗して、浪人しましたし、大学時代は好きになった女の子に二股をかけられました。就職してからだって、1年目に起こした大きなクレームのことは忘れようにも忘れられませんよ。あのときは随分、立見さんにお世話になりました。」
僕は苦笑いをしながら答える。立見さんよりは、随分失敗してるし、後悔もしてるはずだ。

「なるほどね。まぁ、そういう後悔もあると思う。」
立見さんは、シングルモルトに静かに口をつける。ウイスキーが似合う人というのはこういう人のことを言うのだろう。
「でも、その後悔は今でも続いている?時間が経てばたつほど深く重くなっているかな。」

「うーん。そういわれると自信がなくなりますねぇ…。」
僕は少し迷う。確かに大学受験にも失敗したし、大好きだった彼女には裏切られたし、仕事だって忘れたい失敗が一杯だ。でも、よくよく考えてみると「後悔」 しているようなことを思い出しても、胸がきゅっと締め上げられるような気持ちになるのは一瞬で、あとは懐かしい思い出を愛でるような気持ちになる。浪人時代に出会った友達や先生は、かけがえのない財産だし、女性に対する理解だって深まった。あんな辛いクレームは仕事の励みになったし、後輩が問題を起こしたときにどのように振る舞えば良いかもわかるようになった。つまり、いろいろな辛い体験はあったし、二度と同じ経験はしたくないと思うけれど、後悔してるか。っていわれるとそうでもない。どちらかというと、「良い経験だった。」という表現が適切なのかもしれない。
「他のひとは、そんなこと。というかも知れない。ただ、僕は僕にとってとても重要な、取り返しのつかない後悔をひとつ持っているんだ。時間が経てばたつほど、その後悔は深く、重くなってゆく。時には夢に出てきて、泣きそうになって目が覚めることもある。僕はこれから旅に出るんだ。毎日深くなっていく一方の、心の中に静かに空いた暗い後悔の穴を埋めるための。」狭いバーカウンターの前で立見さんが僕に向き直り、話し始める。

「取り返しのつかない後悔」僕は確認するようにつぶやく。
「そう、取り返しのつかない、深く、重くなっていく一方の後悔。」先輩は自分で確認するように言葉を口に出し、静かに頷いた。

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立見さんは僕がこの小さな広告代理店に入社したとき、仕事の基本を教えてくれた人だ。小さい頃は教師になりたかった。というだけあって、教え方がとても上手な先輩だった。立見さんが教えるときはいつも例え話をつかった。もちろん論理的に説明することもあったけれど、論理的な思考よりも感性を中心に生きてきた時間の長かった僕たちには、立見さんの例え話はとてもわかりやすかった。手が届きそうにない大きなことを言うな。ちょっと頑張れば、あるいは 今日だけは奇跡が起きてもいいかな。そんな気分にさせる広告をつくれ。とくどいほど言われた。

小さな広告代理店だけあって、労働時間なんてあってないようなものだったけど、立見さんは自分の仕事が終わるとさっと帰る人だった。それでいて、営業成績も良かったので、「ああいう人が出世するんだよな。」と同期のメンバーと話していたら、すぐに課長になって、今は部長になっている。50人ぐらいの小さな会社ではあるけれど、30歳で営業部長っていうのは、やっぱり凄いんじゃないだろうか。

もうちょっとだけ、立見さんの話をしよう。立見さんの提案は他の先輩達とは少し変わっていて、営業時に広告の話や扱っている媒体の話は一切しない。静かに相手の話を聞く。広告についての相談を聞くと言うよりは、会社の経営状況や 新商品のコンセプトを重点的に聞く。立見さんと話をするのは気持ちがいい。存在自体が詩のような人だ。媒体に関する資料も、鞄に一杯いれてもってきているのに、ほとんど利用せず、1~2時間話を聞いた後で、おもむろにノートを取り出し、その場でいくつかの言葉と絵を描き、実施する場合のスケジュールと値段 を伝える。相手の答えは決まっている。「じゃあ、それで進めてもらえますか。」だ。立見さんを見ていると、自分がバカみたいに思えてくることがある。一度、真似をして、経営に関して聞こうとしたら、不審な顔をされてしまったことがある。今でも、興がのったときは、真似をしてみることもあるけれど、実際経営の問題から広告の提案に繋げることができているかというと、そんなことはない。僕のはただのコピー。おそらくインクだってにじんでるだろう。

そんな人だから、立見さんが退職する。という話を聞いたときはまず、驚いた。そして、少し裏切られた気がした。立見さんは日頃から「俺はこの会社に骨を埋 める覚悟でやる。」と公言していたので、あの言葉は嘘だったのか。と思い、傷つき、怒りがこみ上げた。それから諦めた。「まぁ、今よりいい給与とか仕事と かあれば、普通はそっちいくよなぁ。」と。

でも、立見さんは、転職するわけでも起業するわけでも、もちろん会社が嫌になったわけでもなかった。ただ、ぽっかり空いた穴を埋めるために、少し会社を離れるのだそうだ。次の仕事は、決まっていない。

「職業、旅人ですか。」誰かが冗談っぽく立見さんに聞いた。「うーん。旅人っていうか、あえて言うのであれば、農業かなぁ。耕しに行くんだ。」そういって、立見さんは冗談ぽく笑った。(続く