そういえば昨日、『アイ・アム・レジェンド』に関する衝撃の事実というエントリを読んだ。僕自身はこの映画を見たことはないのだけど、原作に忠実に映像化すると、本編とは異なるエンディングになったらしい。

ちなみにこの原作をモチーフにして、故藤子・F・不二雄先生は、流血鬼という傑作を書いている。小学生の頃に単行本で読んで衝撃を受けた覚えがある。

アイ・アム・レジェンドも、流血鬼も、リチャード・マシスンの原作をもとにしているので基本的なプロットは同じだ。流血鬼のあらすじを少し紹介したい。

主人公たちの住む都市はルーマニアから広まった謎の奇病(マチスン・ウイルス)によって、みな吸血鬼になってしまう。危うく難を逃れた主人公を含む兄弟3人は、街の人を相手に絶望的な戦いを繰り広げる。

十字架を胸から下げ、手に木の杭を持ち、深夜に吸血鬼の家に侵入しては、吸血鬼を殺す。人より優れた能力を持つ吸血鬼を殺すには、心臓に木の杭をうつ以外の方法はないのだ。

襲撃が成功した夜、隠れ家として使っている洞窟で、ささやかな祝宴を兄弟たちは開くが、長兄は驚きの事実を口にする。自分も吸血鬼にやられてしまった。発病するまであと少しだ…逃げろ、と。

翌日、吸血鬼となった兄は先頭にたち、吸血鬼たちを先導する。主人公たちが隠れ住む洞窟に…。

という感じで、最終的には主人公も吸血鬼になる。そして、吸血鬼として生きることの素晴らしさを知る。そして、吸血鬼の側から見た場合、いかに自分が吸血鬼の生活をおびやかしていたのか。ということを知る。(主人公の命を救うのは、主人公に殺されかけた吸血鬼の医者だったりする。)

この作品は、

立場の違いがいかに、残酷な行為を生むか。
そして、人は自分の価値観でモノを考え、いかに相手を理解しようとしないか。


ということを教えてくれる。
ただ、問題だけでなく救いも提示している。吸血鬼になった主人公の兄のその後の行動は心震わせるものがある。洞窟の近くに吸血鬼たちを案内するものの、素 通りして主人公を吸血鬼たちから守るのだ。吸血鬼になりたてだったからかもしれないけれど、やはりこれは兄弟としての愛から生まれる配慮だったんじゃない だろうか、力に訴えず、お互いを理解するための行為だったように思う。

アイ・アム・レジェンドも、本来は立場の違いと、 力による解決の無意味さを訴える映画だったはずだけれど、様々な政治的配慮によって骨抜きにされてしまった。前述のブログ主は次の ように述べている。
SFであれアクションであれ、2001年以降にアメリカで作られる 「都市崩壊映画」は、どうあがいたところで確実に911の影を背負うことになる。その状況下でこのラストを提示することは、アメリカ人に対して「そ もそも我々は、911を初めとするテロ戦争において本当に被害者だったのか?」という、最も触れられたくない疑問を突きつけるのに等しい。
このラストというのは、ここでいう真のエンディング、すなわち正義と人類のために戦う主人公は、新人類(吸血鬼)たちにとって悪であり、伝説の虐殺者 であるということの暗示を意味する。

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いろいろなところで、いろいろなぶつかり合いがある。
小さな衝突もあれば、国同士が争うような衝突もある。

大切なことは、ぶつかりあうことではなくて、まず理解しようとすることなのだろう。



藤子・F・不二雄少年SF短編集 (2) (小学館コロコロ文庫)藤子・F・不二雄少年SF短編集 (2) (小学館コロコロ文庫)
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