fukui_dayo: 寝ている両親の傍を少年はそっと通り過ぎ、夜の月明かりに走り出す。目的の部屋に小石をなげ、息を潜めて少女を待つ。静かに扉が開き、二人は河川敷で夏の夜に溶ける。蛍が光り、虫が音を奏でる。指を絡ませ体を重ね、二人は男と女になる。マンションも携帯もない近くて遠い昔の話。 #twnovel
日本を案じるような論調がメディアを席巻しているけれど、本当に日本って暗いニュースばかりなんだろうか。
もし、あまり幸せを感じることが出来ていないとしたら二つぐらい理由があるんじゃないかと思う。
一つは、日本が十分豊かになってしまったこと。お金がまったくないときに宝くじで100万円を手に入れることが出来たら、びっくりするぐらい嬉しいだろう。一方で、10億円の資産を持ち、黙っていても毎年1億円ずつ増えていく富豪の人が100万円を手に入れても、嬉しさはお金がまったくない人よりも少ないことだろう。
幸せとは絶対的なものではなくて、自分がおかれている状況によって変化する、相対的なものなのだろうと思う。経済学的にいえば、限界効用逓減の法則というのかな。
もう一つは人は手段と目的を人は時に混同してしまうということ。例えば、金融の世界に身を置いたとする。金融の世界に身を置いたのは、高い収入を得たいからで、高い収入の先には幸せという本当のゴールがあると考えていたからそのキャリアを選んだのだろう。
しかし、そういう風にしてキャリア選択をした人の中には、いつの間にかお金を稼ぐことがゴールになってしまう人がいる。これは、手段と目的を混同してしまった例だ。
金融を引き合いに出したけれど、こういった混同はそこかしこで起きている。自分や家族を幸せにするために必死に働いたのに、いつの間にか働くことがゴールになってしまっている。何か成し遂げたいことがあって起業したのに、いつしか存続させることがゴールになってしまっている。
これも手段と目的を混同してしまった例といえるかもしれない。
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厳しい環境に直面している国や民族のことを考えたときに、真っ先に思い浮かぶのはユダヤ人のことだ。国を持たずさまよえる民族となったユダヤ人は生き残るために、その知性を磨いた。他人が嫌がる金融という仕事に積極的につき(というか、それぐらいしか許される仕事がなかったからだ。)その力を磨き続けた。
災害が起こった時に、ひとつだけ持ち出せるとしたら、持ち出すものは「教育」(ユダヤ人のことわざ)
という言葉を生み出すまでになった。
氏族で固まり、有望な若者には投資するコミュニティを作り、新たな産業を育成した。
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ときどき昔の人は不幸だったのかと考えることがある。毎日重労働に追われ、出会う人は村の限られた人たちばかり。税金は高く、自分で作った米も満足に食べられない。楽しみと言えば、1年に一度の祭りのみ。
でも、それでもまぁまぁ楽しく生きていたのではないかと思う。
もちろん、時間を戻せないのと同じように、過去に戻っても僕らが幸せになれる。ということはないだろう。僕らはもう、豊かな生活を知ってしまったのだ。
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豊かな(便利な)環境から、貧しい(不便な)環境に落ちることで、現在の豊かな生活のありがたみを知る。というストーリーは小説などではよく用いられる手法だ。
何不自由なく暮らし、贅沢三昧している貴族の少年が、手違いで漁船に乗り込む。働かざる者食うべからず、ということで否応なく働きはじめる。少年はそこで一切れのパン、一切れの肉の美味しさを知り、たくましく成長するとともに、人の素晴らしさを知る…。
とそんな感じのストーリーは手を変え品を変え、様々な形で紹介される。
自己啓発に関する書籍やセミナーでも似たような話は聞くことがある。
ある意味、不便な環境をあえて体験させる。というのは現在ではビジネスのネタとなっているようだ。
例えば、農業。
自分で作った野菜を食べ、そのおいしさを知る。
例えば、登山やキャンプ。
自然の中に身を置くことで、自分の小ささを知る。
みたいな。フィットネスクラブもそうかもしれないね。日常で体を動かさないから、体を動かす場所と時間をお金を払って手に入れる。不便な生活はビジネスになる時代になってきたのだ。
もちろん、不足や不便を感じ、もっと上を目指すことで人は豊かになってきた。経済成長も実現してきた。それは素晴らしいことだ。「足るを知る」ことが素晴らしいことだとは思わない。
しかし、同時に、今の自分の幸せを楽しみつくす。味わいつくす。ということもしていいと思うのだ。
でも、それでもまぁまぁ楽しく生きていたのではないかと思う。
もちろん、時間を戻せないのと同じように、過去に戻っても僕らが幸せになれる。ということはないだろう。僕らはもう、豊かな生活を知ってしまったのだ。
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豊かな(便利な)環境から、貧しい(不便な)環境に落ちることで、現在の豊かな生活のありがたみを知る。というストーリーは小説などではよく用いられる手法だ。
何不自由なく暮らし、贅沢三昧している貴族の少年が、手違いで漁船に乗り込む。働かざる者食うべからず、ということで否応なく働きはじめる。少年はそこで一切れのパン、一切れの肉の美味しさを知り、たくましく成長するとともに、人の素晴らしさを知る…。
とそんな感じのストーリーは手を変え品を変え、様々な形で紹介される。
自己啓発に関する書籍やセミナーでも似たような話は聞くことがある。
ある意味、不便な環境をあえて体験させる。というのは現在ではビジネスのネタとなっているようだ。
例えば、農業。
自分で作った野菜を食べ、そのおいしさを知る。
例えば、登山やキャンプ。
自然の中に身を置くことで、自分の小ささを知る。
みたいな。フィットネスクラブもそうかもしれないね。日常で体を動かさないから、体を動かす場所と時間をお金を払って手に入れる。不便な生活はビジネスになる時代になってきたのだ。
もちろん、不足や不便を感じ、もっと上を目指すことで人は豊かになってきた。経済成長も実現してきた。それは素晴らしいことだ。「足るを知る」ことが素晴らしいことだとは思わない。
しかし、同時に、今の自分の幸せを楽しみつくす。味わいつくす。ということもしていいと思うのだ。
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