教育問題に関して、感動するエントリと出会ったので、一人でも多くの方とこの感動を分かち合いたいと思い、筆をとる。後で詳しく述べるが、感動したというのは芦田氏のエントリだ。ただ、このエントリはそのまま読むと誤解を招く可能性もあるので、時系列で様々なブログの記事を引用しながら教育に関して感じたこと、考えたことを述べた上で、芦田氏のエントリを紹介したい。

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ここ数日、Twitter上で教育問題に関しての話題が尽きることはなかった。発端は下記のエントリだ。

教育の改革は火急の問題 - 松本徹三

このエントリに関してはぼくも既に見解を述べた。各論には反対する部分もあるが、松本氏が主張するところの、「画一的な価値観ではなく、多様な価値観に支えられた教育。それぞれの人間の多種多様な興味を尊重し、それを育てていくような教育。」この点に関しては賛同できる。

ただ、そういった教育を実現するためには教育システムの改革の前に、親(つまり僕の世代の意識)の改革が必要だ。と僕は主張した。問題としている部分に違いこそあれ、この松本氏のエントリは大きな論争を起こし、考えるきっかけを与えたという点で、非常に良いエントリだったのではないかと思う。

そんな、松本氏の主張に真っ向から噛み付いたのが藤沢氏。

中学受験こそ日本のエリート教育の本流、東大なんてクソ


それなりにこの記事の支持者がいることが何より日本の教育の問題点を表していると言える。教育について論じる場合は以下の3点を抑えた上で語るべきだろう。
  1. 人には自分が受けた教育を良い(あるいは悪い)と思い込むスキーマがある。
  2. 知能が発達する時期は人によって異なる
  3. 知能の定義は多様でテストで図れるのはごく一部
少し詳しく説明する。

まず1に関してだが、自分が受けた教育を良いと感じている場合は、その教育を子供にも受けさせようとする傾向があることは知っておいたほうがいい。(悪いと感じている場合は、その逆の教育を受けさせようとする。)田舎の公立学校でのびのび育って良かったと感じている人はその教育がいいと語るだろうし、都会の私立で猛烈な受験を勝ち抜いて、人生うまくいっている人はそれがいいという。教育について考えるときに陥りがちな罠はこれだ。世の中には多様な教育環境があり、時代や場所、人によって最適な教育環境は当然異なる。

2に関してだが、これも大事だ。中学で神童でも大学になると馬鹿になる人はいくらでもいる。スポーツ選手を思い浮かべるとよくわかるが、将来を期待されながら潰れてしまう人もいれば、年齢を経てから実力を伸ばす人もいる。人によって知能が成長する時期は各々異なるのだ。早い段階で選抜を行いそこで将来を決めてしまうことの危険性はここにある。

3に関してはこれまで繰り返し述べてきたことだ。知能は多様であり、テストではかることが出来るのはほんの一部である。

藤沢氏の意見は、1)他の教育の可能性を論じていない。2)知能の発達時期の違いを考慮していない、3)知能の定義を非常に狭い範囲に限定しているという点で、反論のための反論になっている。
さて、以上は僕の意見だけれど、松本氏と藤沢氏の意見には、いつも的確な分析をされるWilly氏は異なる視点から冷静な見解を述べておられる。

教育の機会平等と選抜 : 統計学+ε: 米国留学・研究生活

松本氏が問題提起されていた教育システムの問題にフォーカスした至極まっとうな意見だ。教育システムに関して言うと現状のシステムはかなり上手く機能しており、問題点は
教育リソースが重点配分されたあとも更なる選抜のためにリソースが費やされていることだと思う。
と述べている。いろいろ考えたけれど、論点を教育システムにおく限り、非のうちどころは無いように思う。そう、日本の教育システムは結構優れているのだ。

次に紹介するのは、グロービス代表の堀氏のブログだ。

子供の教育を考える~長男の中学受験に思う : 堀義人blog 起業家の風景

このブログには本当に考えさせられた。親たるもの、ここまで考えなければダメだろう。という教育に関する親の一種の理想像を見た気がする。さて、子供の教育を考えるにあたって親の関与は欠かせない。親の意向は存分に子に反映されているが、最後は子に決断させている。
長男は、「中学受験をする」と決めてから、小学校の5年生の秋からの塾通いを始めた。我が家では、5年生の夏までは、囲碁優先である。(中略)中学受験をすると決めたら、長男と一緒に、志望校を定めなければならない。文化祭を見に行ったり、学校説明会にも行ったりした。「本人が行きたい」、と思う学校を見つけることが一番重要なのである。
どういう教育がもっとも良いか、クリティカルに堀氏が考える部分も素晴らしいが、それ以上に素晴らしいのは上記の部分だ。この一文に堀氏の子の教育に関する哲学が現れている。一人の親が、所与の環境下で選べる最高の教育の一例と言えるのではないか。

さて、僕は堀氏のブログを読んで、おおいに感動したのだが、更なる気付きと共感を得たのが、芦田氏の次のブログだ。2009年1月26日の記事だ。他の人があれこれ言う前に、とうの昔に結論を出していたのだ。

私立中学受験に私は反対する(学歴社会とは何か) ― 子どもを愛せない親たちに再度捧げます。

僕はあまり賢くないのか、芦田氏の記事を理解できないことが結構ある。

しかし、自分自身が興味ある分野だからか、この記事はものすごく良くわかった。
良くわかるどころか、感動した。涙さえ出た。

さて、この記事を読むためにはコメント欄での芦田氏の発言、「私は公立か、私立かという議論をしているわけではない」という部分をセットで読まなければいけない。僕が最初に読んだときは、松本氏からはじまった一連の議論を読んだ後だったので、冒頭にある、
小学校や中学校から私立学校に通っていた社会人で、まともな仕事のできる〈大人〉に、私は出会ったことがない。
この一文を読んで、一度読むのをやめてしまった。(大変な失敗だった。)
Twitterのおかげで改めて読む気持ちを持ち直し、再読した。そして感動した。
いくつか、心に残ったフレーズを引用したい。

芦田氏は子供の時間の重要性を次のように説く。
子供の時代にこそ、人の人生の何倍もの時間を累積させた〈社会〉や〈世界〉(つまり〈歴史〉)は存在している。このときにしか(いい意味でも悪い意味でも)出会えない人間たちがいる。そういった出会いや経験の資産が、社会人になったときに、その小さな〈世界〉を〈変える〉力に結びついていく。会社の組織論や常識を疑う力をはぐくむ。
次いで親の役割を次のように説く。
学校や友人や地域を選ぶことによって、子供の教育が可能だと思うこと、それを“成り上がり根性”と呼ぶのです。最大のNobilityとは何か。それは、どんな学校や友人や地域の中にあっても、自分の子供を最後まで愛すること、親が誰(学校や友人や地域)にも負けない子供への愛を信じることです。
また、学歴社会の思想とは無階級の思想(努力した人であれば誰でも何にでもなれる)と説いた上で、次のように述べる。
国語・算数・理科・社会・英語が主要5科とされたのは、その他の科目である音楽や美術や体育には、(「主要5科目」に比べて相対的に)家庭環境や遺伝要素が強かったからだ。前者の主要科目は一夜漬けの努力が効く科目だったが、後者の科目は努力の効かない科目だったのである。
知能の多様化とは別にこういった背景があることを知った上で、教育に関して論じるのがいいだろう。

そして最後に僕が感動したのは、家族のNobilityとは何か?と題された最後の一節だ。
なぜ母親たちは、子供に直接に向かわないのか。なぜ自分の子供に直接に向かわないで、勝手に自分の子供のことを嘆いているのか。「わかってねぇんだよ、結局」。この少年の家族に幸あれ。この少年の怒りのNobilityに幸あれ。
一部分を切り取っても、おそらく伝わらないだろう。僕はこの記事を読んで泣いたし、「幸あれ。」と叫びたい気分になった。是非全文を読んでもらいたい。

教育システムから始まった一連の教育に関する旅だが、ここに僕は僕の指針となるものを得た気がする。

僕は、いい親になれるだろうか。なりたいと思う。