今日はいくつか教育に関しての気になるエントリを見かけた。ひとつは下記。

教育の改革は火急の問題 - 松本徹三

前半部分の日本の塾システムの馬鹿馬鹿しさに関しては、一方的な見解で納得出来るものではないが、後半部分の松本氏の主張には賛同できる。
画一的な価値観ではなく、多様な価値観に支えられた教育。それぞれの人間の多種多様な興味を尊重し、それを育てていくような教育。表面的なものではなく、真に自らが誇れる「実力(競争力)」を身につけられる教育。そういう教育こそを、日本の若者達の為に、我々はこれから作り出していかなければならないのではないでしょうか。
もっとも、上記のような教育を実現するためには、教育システムの改革の前に親の改革が必要だ。(記事中に出てくる夫妻は、中高一貫校以外の選択肢を考えていないのだろうか?)

しかし、多様な価値観が認められ、多種多様な興味が尊重されるようになれば、それは個人が持つポテンシャルを最大限発揮する社会につながると思う。(この点に関しては、もし宜しければ過去エントリ 知能を幅広く捉える をご覧頂きたい。)

もうひとつは、Twitterでkojisato515さんが、大学の分野別品質保証の在り方検討委員会に呼ばれたという話だ。

前述のように、僕は教育に関して多様な選択肢が選べれば良い、と思っているのだが、行政主導のトップダウン形式で大学の学びの品質を定義することは危険を感じる。

現在、ゆとり教育が問題になっているが、ゆとり教育とは第二次ベビーブームの頃の過酷な受験戦争が社会問題化したときに、提唱された。実際に施行されたのは少子化が進み、大学全入時代が始まってからだった。この頃には学生の学力不足が問題にされるようになっていた。

たとえ良い施策であっても、時期を間違えると効果的に機能せず、逆に歪みを作り出す。
そして、政府や行政の意思決定は多くの場合において、市場の調整機能よりも遅く、硬直的だ。
教育を取り巻く環境は凄まじいスピードで変化を続けている。だからこそ、教育の在り方に関しては行政の関与は最小限にとどめ、市場に任せたほうが望ましい。そんな僕の考えを代弁してくれる文章を下記に紹介する。戦略思考、創造的思考について述べられた三谷宏治氏の観想力の一節だ。
生命は、地球環境を相手に、まさに「死ぬ」まで続くゲームをやっているのだ。(中略)そういう、種として対応しきれない環境変化が起こった時、種は絶滅する。

生物種の生き残りのための戦略はそれ故、「多様性」となる。

寒さに強いもの、暑さに強いもの、土に潜れるもの、空を飛べるもの。皆揃って討ち死にしないよう、いろいろな「生き残りの戦略」を試しているのだ。

そこでの鍵は「変化が起こる前から準備する」だ。環境の激変が起こってからでは間に合わない。出来ることは知れている。事前に多様性を生み出しておくこと、内包させておくことが企業にとっても「永続的成長」のための必勝法なのだろう。

企業戦略の本にはよく、「戦略とは捨てること」「選択と集中が大事」と書かれているが、これは個別の経営主体(今回の場合は、個別の大学)にとっては重要なことだ。強みに集中することで生き残りをはかる。2000mを超える深海を制したマッコウクジラや5mを超える高木を制したキリンのように、強みを活かし、差別化をはかり、特定市場を抑えてしまう。これは大学の戦略として有効だ。

一方、教育産業全体で見たときには、多様化が必要だ。社会で必要となる能力は刻一刻と変化する。しかも、一流のものが求められる。そんなときに国が教育機関に対して行わなければいけないことは、画一的な教育基準を決めることではなく、自由度を高め、競争させるとともに、環境変化に生き残ることだ。

もちろん、義務教育はなかなかこうはいかない。子が親の庇護下にある間は、通える学校も限られるし、予算にも限りがあるだろう。ある程度画一的な内容を教える必要もあろう。しかし、大学は行政による縛りは可能な限り少なくし、カリキュラムもゴールも大学に任せれば良いと思うのだ。


教育の問題は難しい。100人いれば、100通りの考え方がある。
国がトップダウンで決めるのではなく、(そもそも決まらない)
地道に賛同者を募る活動を、各教育主体が円滑にできればそれでよい。


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