日本語のブログの質が低いという意見を聞くことがある。
ブログの目的が曖昧なものが多い。というのがその理由のようだ。

海外にいて通常は英語やその他の言語で現地のブログを読んでいる人にそういう感想を持つ人が多いようだ。真偽はさておくとして、何度か同じような意見を耳にしたことがある(しかも、親日・知日的な人から)ので、実際にそう感じる人が一定の割合でいることは確かなようだ。

そう感じたときに思い出したのが次のエントリだ。

日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編)

文章中に触れられているが、梅田望夫氏は以前、「日本のWebは残念」とTwitterで呟き、その後バッシングを受けた経緯がある。また、記事中では、ウェブはバカと暇人のものという中川淳一郎氏が書かれた書籍にも触れられている。

僕は日本のウェブを成長途上にある大変好ましいメディアだと捉えている。その一方で、確かに残念な時期もあったのではないかと思う。ただ、国民性や特定のメディアやサイト、個人に問題の原因を求めてはならない。(問題の原因を国民性や文化の違いに求める議論は多いが、それは多くの場合考える作業を放棄しているだけだ。)

1年たった今だからこそ、仮に日本のウェブが残念だとして、その原因はどこにあるのか。冷静に考えてみたい。
上記のインタビューの中で梅田望夫さんは次のように述べている。
英語圏の空間というのは、学術論文が全部あるというところも含めて、知に関する最高峰の人 たちが知をオープン化しているという現実もあるし。途上国援助みたいな文脈で教育コンテンツの充実みたいなのも圧倒的だし。頑張ってプロになって生計を立てるための、学習の高速道路みたいなのもあれば、登竜門を用意する会社もあったり。そういうことが次々起きているわけです。

SNSの使われ方も全然違うし。もっと人生にとって必要なインフラみたいなものになってるわけ。
梅田望夫さんは、スゴく純粋に理想をおっていて、ウェブには自分を高めるためのインフラとなることを期待していたことがわかる。(ちなみに僕も同じスタンスだ。)梅田さんの定義で言うと、「自分を高めるインフラとしてのウェブが理想」ということだ。

実際には日本にだって、自分を高めるためのインフラとなるようなサイトは沢山あるし、他の言語圏だって、バカと暇人のものと言えるサイトがたくさんあるはずだ。しかし、そう感じることができない原因はどこにあるのか。あるいは、バカと暇人のものに見えるサイトが目立つ理由はどこにあるのか。

そう考えたときにひとつ思い当たるふしがあるのが、日本のインターネットの匿名性だ。掲示板はもちろん、SNSやブログでもハンドルネームが当たり前で、「通りすがり」などの完全匿名での発言が多い場所もある。

クレームの電話を受けたことのある人であればわかると思うけれど、人は匿名性が担保されるとすごく嫌らしくなれる。素の自分がでるといってもいい。これはネットに限らず起きる。僕も聖人ではないので、頭の中では倫理に反することを考えたり、感情のままに考えることもある。皆とは言わないが、多くの人はそうなんじゃないだろうか。

では、日本のネット社会の匿名性を生み出したものは何なのだろうか。

それは、ここ10年というもの、実名よりも匿名で活動した方が、はるかにリスクが少なくリターンを得ることが出来る人が多い社会だったからと言えるのではないだろうか。

日本の社会でも実名でブログを書いている人はたくさんいる。ジャーナリストや学者や、政治家や企業経営者がそうだ。彼らは、実名でブログを書き、自分や自分の所属する組織をPRしたほうがメリットがあるからそうしているだけだ。2chがあるから匿名が普通。Twitterは実名のほうが得。といったツールに問題があるのではない。

昨日のエントリで、日本はアメリカに比べフリーエージェントの数が圧倒的に少ないということを述べた。
現在、アメリカではフリーエージェントとして働く層が3300万人、労働力人口の23.5%を占めています。一方、日本のフリーエージェント人口は370万人、労働力人口の5.5%に過ぎません。
改めていうまでもないことだが、日本の労働市場は欧米のそれに比べ極めて硬直的だ。無縁死に代表されるように会社を離れたとたんにいろいろなものを失ってしまう人も多い。このような社会では、実名でネット上の活動を展開することは極めてリスキーだ。問題を起こせば、すぐに昇進も昇給も失われるし、場合によっては懲戒解雇の憂き目にあう。

フリーエージェントとして働く層にももちろんリスクはあるが、それ以上に名前を売ることができるメリットは大きい。故にリスクとリターンを天秤にかけて、実名で勝負する人は今後どんどん多くなるだろう。(力のあるジャーナリストは社内にいようと社外にいようと、記名記事を書きたがるのと同じ理屈だ。)

今、日本社会は構造が変わりつつある。労働は否応なく流動的になり、学生も社会人も少なからず自分をブランド化していくという活動が大事になる。こういう社会では自然に実名文化が生まれ、相互に高め合うような関係が芽生える。

日本のウェブが残念だった時代は確かにあったのかもしれない。しかしそれは単に社会構造上の問題から、発展途上だけだったのだ。

それが僕の結論だ。
これからがスタートなんだ。