昨年末、偉大な一人の経済学者が世を去った。その名をポール・サミュエルソンという。

サミュエルソンは、シカゴ大学で学士号を取得し、ハーヴァードで経済学博士号を得た。25歳の時には既に年齢よりも多くの博士論文を出し、その優秀さで知られていたが、ハーヴァードで職を得ることは出来ず(真偽定かではないけれど、当時はユダヤ差別が激しい時代だったらしい)、MITで教鞭をとった。1940年のことだ。

当時、MITは理工系の大学としては既に名が知れ渡っていたが、経済学科ではほとんど知られておらず、ハーヴァードに比べると一段下に見られていた。当時のアイヴィー・リーグの大学はしばしば反ユダヤ的だったそうだが、MITはそういう差別もなく、あらゆる意味でアウトサイダーといっていい大学だった。

天才数学者はこう賭けるでは、MIT時代のサミュエルソン教授を次のように評している。
MITが理工系に焦点を向けていたことは、サミュエルソンの才能にはぴったりだった。サミュエルソンは経済学を数理科学と見ることにした。それは当時としては異例の方向性だった。アダム・スミスから、ジョン・メイナード・ケインズを経て、経済学はほとんど講話で、ハーヴァードでも経済学は講話だった。サミュエルソンはMITで経済学を数学にした。サミュエルソンは、物理学者と同じように微分方程式になじんでいた。その論文は「定理」だらけだった。サミュエルソンは数理と鋭利な機知を組み合わせ、その講義や発表を、偉大で退屈な経済学者の話とは違うものにした。(中略)

MITの経済学科の名声を、ほとんど一人で自分のそびえ立つような高さの水準に上げていた。
サミュエルソンは「経済学」と名づけられた教科書を書き、それは長年のベストセラーとなった。そして1970年にはノーベル経済学賞を受賞し、ノーベル経済学賞はサミュエルソンに賞を与えるために生まれた。とまで言われた。

さて、サミュエルソン評に関しては、多くの方が様々な視点から語られているので僕からの言及はこれぐらいにしておく。経済の専門家から見れば、また違った意見もあることと思う。

僕がこの一文を読んだときに感じたことは、これからの時代、サミュエルソン的な教授が、大学経営のために求められるようになるだろう。ということだ。

さて、国内の大学が、危機に立たされていることは周知の事実だ。志願者の増加により大学の入学者自体は高止まりしているが、このまま少子化が続けば、間違いなく受験料・授業料は減る。海外大学への進学志向が高まっている昨今、国内のみならず、海外大学との競争も激化している。政府からの助成金は減少傾向にあり、経済大国としての日本の力も弱まった現在、日本に留学することのメリットは薄まっている。

そんな厳しい外部環境にさらされている大学経営ではあるが、そこにもやはり勝ち組と負け組が存在する。かつて僕は、幸運にもある私立大学の理事長のもとで仕事をさせてもらったことがある。彼は抜群の経営手腕で、短期間の間に(それでも20年というスパンだが。)大学の知名度、入学偏差値を大きく向上させ、経営を安定させた実績のある人物だ。

さて、僕は理事長のもとでの仕事を終えたときに、銀座の寿司屋に連れて行ってもらったのだけれど、そこで、ずっと聞きたかったことを思い切って聞いた。

「大学経営のKFS( =Key Facter for Success )はなんなのでしょうか?」
理事長はその問いに次のように答えてくれた。

それはね、fukui君。教師の質だよ。素晴らしい教師を招聘できるかどうかが全てなんだ。素晴らしい教師が優れた学生を集めてくれるし、講義や研究を通じて学生は卒業までの間におおいに伸びる。結果、大学のブランドが高まり、更に優れた教師と学生を集めることができるようになる。大学経営はこの繰り返しなんだ。遠回りで時間がかかるように感じるけれども、それが一番早い道のりなんだ。」

実にシンプルな答えだけれど、真実だと思う。(ちなみに僕はこの言葉がきっかけとなって、人材・教育の分野で働くことを決め、最初の転職を経験した。)

教師の質をどのように定義するかは難しい。大学には教育と研究の二つの側面があり、それぞれに必要な素養は異なる。とも言われる。しかし、あえて理想を言えば、サミュエルソンのような教育者が大学にとって理想であり、大学が求める教師なのではないだろうか。

ポイントを挙げる。
  1. 優れた大学で一級の教育を受けている。
  2. (その時点で)評価の劣る大学にも進んで向かい、教鞭を取る。
  3. 特定の分野でイノベーションを起こし、新たなスタンダードを確立する。
  4. 書籍や受賞を通じ、広く一般に認知される。(大学のブランド向上に自ら貢献する)
  5. 教育に熱心で、優れた後継者を何人も生み出す。

以上だ。サミュエルソンは余りにも偉大だが、大学で教鞭をとろうという人は、大なり小なりサミュエルソン的な動きをしなければならない時代になっているのではないだろうか。

何らかの言い訳をして、この5つのことを目指すことから逃げている教育者もいると思う。(例えば、書籍や受賞なんて、俗物的だ。とか、研究が仕事で教育は仕事ではない。とか、有名な大学で教鞭を取ることにこだわり政治にあけくれているとか)結局は自分自身が、大学以上のブランドになるしかないのに。

これだけ学問分野でも競争が厳しい時代になったのだから、教授になる。っていうのはすなわち、小説で文学賞を取る、スポーツの国際大会で優秀賞を取る、のと同じぐらい高いレベルでの競争を求められるのではないかな。と思う。

また、一方では、既得権を守り自由競争を好まず政治にあけくれている大学(日本の国立大学にもそんなところがいっぱいある)は、結果的に大学の知名度を落としてしまうことに繋がるかもしれない。(サミュエルソンを逃したハーヴァードは少なからず後悔したことだろう。)

ネットやBlogを通じて知る大学教授たちは優れた人ばかりだし、僕がいうこんなことなんてとうの昔に気づいていると思うけど、とりあえず書いてみた。

大学の現場はもっと厳しくて、ある種の閉塞感に包まれた環境だと思うけれど、そういう意味では困難な経済環境下で経営を頑張っている経営者も、大学教授も同じだと思うので、許して頂けたらと思う。

言ってしまえば、故ポール・サミュエルソン教授を題材にちょっと書いてみたかったのです。



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