シオン。それが僕の名だ。
物語を創り、その物語を求めるたったひとりのために、物語を読むことを仕事にしている。

多くの人に読まれる作品を書くことが僕の仕事ではない。
僕は、たった一人のために、物語を書く。
その人が、最も輝いていた一瞬を切り取り、その記憶を永遠のものとするために。

誰の依頼でも受けるというわけではない。時には断ることだってある。
必ず、依頼主が喜ぶ作品を書くというわけでもない。そこに真実が無ければ、僕の筆は進まない。
それがために、命を狙われることもある。

ひとことでいうと、割に合わない仕事だ。
けれど、僕はこの仕事を愛している。
時々出会う、人生の真実に僕は自分自身の生を感じる。

----

植物が新緑に染まる5月。僕はある富豪から依頼を受けた。
日本でも有数の国際企業を営む創業者一族からの依頼だ。
執事とおぼしき男性から連絡を受け、僕は指定されたホテルのBarで一族の長と会う。

「母の物語を書いて欲しいのです。」
Iと名乗るその男は50代後半とは思えぬほどの、眼光の鋭さをもっていた。全身から発する気のようなものは、確かに一族を率いるだけの器と知性を感じさせた。少しばかりの疲れが見え隠れするのは、母の物語を書いて欲しい。という今回の依頼と関わりのあることだろうか。

「ご期待に応えるような物語が書けるかどうか、わかりませんが。」
僕は慎重に答える。

「シオンさんは、その人が最も輝いていた一瞬を切り取り、物語とすることが出来ると聞きました。私の母は今、死の床にいます。意識不明の重態で、医師の診断ではもって後一週間だろう。と言われています。シオンさんの声が届くかどうかもわかりません。しかし、家のためにいろいろ犠牲を払い、私達兄弟を必死に育ててくれた母に、私なりの恩返しとして、出来ることは何でもしてやりたいと思っているのです。」

「お母様は、I氏をはじめ、ご兄弟の皆さまを産み、育てられた一瞬一瞬が、素晴らしく輝いていた時期だったと感じておられると思いますよ。私が付け焼き刃でお母様のことを知り、書いたとしても、今更価値があるものを書けるとは思いません。」

「価値があるかどうかは母が判断することです。私はとにかく書いてもらいたいのです。私達兄弟にとって、母は素晴らしい女性でした。母は16で父のもとに嫁ぎました。父は富豪の一族だったものの、若い頃には何度か事業に失敗し、時には多くの借金を背負ったこともあったといいます。母は随分辛い思いをしながら、私達兄弟を育ててくれました。私達が成長し、父と母が創り育てた事業を継いだことが、母の幸せであり、誇りなのであれば、それはそれで構わないのです。とにかく、死の間際に、母に、母の一生が素晴らしいものであったということを伝えたいのです。」

僕は迷う。正直、気乗りはしない。I氏の一族は、国際的な企業の支配者であり、成功譚に必ずといって取り上げられる一族だ。もう十分ではないか。僕が何か書いたとしても、美辞麗句の連なりになるのは目に見えている。僕が書きたいのはそんな物語ではない。一人一人の人生に触れる物語なのだ。

「やはり、私がこの依頼を受けるのに適任とは思えません。私が何か書いたからと言って、彼女の生をより尊いものにする自信がないのです。」

I氏はため息をひとつ吐き出し、諦めたように僕に伝える。
「実は、この依頼をしているのは、私ではないのです。死の床に伏している私の母親が、シオンさんにお願いしたいといっているのです。母はどこかで、あなたのことを知り、死の間際にあなたに自分の物語を語ってくれるよう依頼して欲しい。ということを弁護士に伝えていたようなのです。」

人生において、成功した人から物語をつくってくれ。という依頼を受けることはよくある。自分自信の成功譚を生きているうちに噛み締めたいのだ。疲れる仕事だし、つくった物語によっては依頼主の意に反することもあるので、普段だったら断る仕事だ。しかし、今回の依頼は「死の間際」に聞きたい。とのことだ。死の間際に自分自身の生きた足跡を噛み締めたいだけかもしれない。しかし、人は死の瞬間に正直になるともいう。わずかな興味を覚え、僕は思わず答えてしまう。

「死の間際の依頼。ということであれば、断るのも難しいですね。期待に応えることができるような物語を書くことができるかどうか、甚だ自信はありませんが、まずは全力で取り組んでみましょう。」
僕は答える。そして、僕は彼女の人生にダイブする。

----

それからの5日間は目の回る忙しさだった。とにかく、時間がない。僕は几帳面な彼女が描かさずつけていた日記を読み(60年分の日記を読むの筆舌には尽くしがたい辛さだった。)、彼女を知る人にインタビューして回った。移動は全てI財閥のヘリだ。

小学生の彼女、中学の彼女、嫁いだ後の彼女。
取引先からの評判、子ども達がやんちゃをして捕まったときの駐在さん達の話。
そして、事業が軌道に乗り始めてからの、米国のパートナーの談話。アラブの石油王の思い出。
時間はどれだけあっても足りない。彼女の人生は一瞬一瞬が生に満ちている。

人生をまっすぐに歩んだ、太陽のような人生。
その中で、彼女が一番光り輝いていた時期は、いつか。
僕は苦しみの中で、ひとつの真実にたどり着く。

----

病室の中で、僕は老女の傍らに座る。
人工呼吸器をつけ、安らかに眠るその寝顔は、とても死を目前にした女性とは思えないほど美しい。
美しい人だったと聞く。知性の溢れる人だった、と聞く。
戦時中、住む街が空襲にさらされたときは、率先しての人を導き、多くの命を救ったという。
戦後、高度成長の中、夫を支え、今の一族の礎を築いたという。
そんな神々しいまでに愛しい女性に、僕は彼女の物語を読む。

12時になり、すっかり寝静まった両親の傍らを僕は足音を忍ばせて通り過ぎる。来てくれるだろうか。
僕は持てる勇気の全てを振り絞って、彼女の靴箱の中に、僕のメッセージを書いたノートの切れ端を置いてきた。

「君のことが好きだ。君と一緒に星をみたい。今日の夜1時、中学校の河川敷で待つ。」
僕は、寝ている父の傍らを通り過ぎ、母の傍らを横切る。今、両親が深夜に一人外に出ようとしている僕を見ても、僕を止めることはできない。僕は、今日この時間、彼女と会えるのであれば、なにもかもを捨てていくつもりだ。

幸い、農繁期で忙しい両親は疲れ果てているらしく、目を覚ますことがなかった。僕は、家の外にでる。5月とはいえ、高原にあるこの静かな村の風は冷たい。

僕は、歩く。
歩く速度はどんどん速くなり、いつしか僕は走り始める。全身に溢れる気持ちはもはや抑えきれない。

「彼女が来てくれなかったらどうしよう。」
ふと、そんなことを考える。その可能性のほうが高い。

僕は彼女としっかりと話したことがない。僕にとって彼女は眩しすぎた。
いつも、視界の端で彼女の姿を捉えていた。

中学校の席は隣だ。4月になり、2年になり、席が隣になった瞬間から、彼女のことばかり見ていた。
1ヶ月たった今、もうその気持ちは抑えることができない。

彼女は優等生だ。夜中にこっそり抜け出して、中学校まで来るなんてことをするだろうか。
僕とは違うのだ。

僕は中学校に着く。部活で通い慣れた武道館の屋根に登り、河川敷に彼女が見えるのを待つ。
待つ、待つ、待つ。

時計を見る。まだ、着いてから5分と立っていない。約束の時間まで30分もある。
待つ、待つ、待つ。

僕は怖くなる。彼女が来なかったらどうしよう。
というか、そもそも来るとあてにするほうがおかしいのだ。

いっそ、全て忘れて帰ってしまおうか。
そんな思いが、頭をよぎる。月明かりだけが周囲を照らし、人の息づかいは聞こえない。
蛙と、梟の鳴き声だけが闇にこだまする。

そんなとき、暗闇の中に人影が見えた。

田舎の村だ。
中学校は一つしかない。夜は人が住まう場所ではなく、蛙や梟たちが生を謳歌する場所だ。
月だけが明るく輝いている。本当に明るい月だ。
誰もいない。天と地の間に、僕と、彼女だけがいる。

僕は屋根から駆け下り、河川敷に走る。
そして彼女の前に立つ。

「来てくれたんだ」
もっと気のきいた台詞は言えないものか。

「うん」
彼女の答えはシンプルだ。月明かりに照らされた彼女の顔は、神々しいほど美しく、切れ長の目はこの世のものとも思えないほど美しい。
「わたしも、会いたかった。」
僕の心は震える。

「学校では、どうもうまく話せないから。」
本当にいいたいことはそんなことではない、僕はこんな自分を疎ましく思う。
僕は、彼女に座るように促し、河川敷に並んで座る。

僕と彼女は、星を眺め、月を眺める。
驚くほど美しい。

「君のことが好きなんだ。来てくれて本当に嬉しい。」
「私も、好き。」
彼女が答える。長い睫毛が夜の風に揺れる。
僕はもう我慢ができず、彼女を抱きしめる。

口吻をする。肩を抱く。好きだ、好きだ、好きだと心の中でつぶやく。
彼女の心がそれに答える。

「中学を卒業したら、結婚しよう。幸せにする。」
僕は彼女に伝える。彼女は静かに頷く。
僕は彼女を抱きしめる。彼女は静かにそれに答え、星明かりに照らされた夜がゆっくりと過ぎていく。

----

空が明るく白み、僕は彼女を家の近くまで、送る。
僕が家に帰る頃には両親は目を覚まし、朝餉の準備をしているかもしれない。
でも、それがどうしたっていうんだろう。僕は、無敵だ。

僕は、家の戸をそっとあける。まだ両親は寝ているようだ。
自分の寝床までいき、そっと布団に入る。
父よ、母よ。ありがとう。僕は目を閉じる。

----

彼女は、それからまもなくして、東京の富豪に見初められ、婚約する。
家族思いの彼女にしては、驚くほど頑強に縁談に抵抗したという。
しかし、結局、彼女の父と親類の意向に従った。そういう時代だった。

僕は彼女を取り戻したいと思うけれど、驚くほど無力だ。

中学を出て、働く。
いつか彼女を取り戻せると信じ、僕は働く。
忙しさの中で、彼女の記憶は薄れ、いつしか彼女に子が生まれたことを聞く。
僕は彼女のことを変わらず思い続けるが、あれほど近くに感じられた彼女が、どんどん遠くなっていく。

僕と彼女が出会い、結ばれるには少々時代が早すぎたのかもしれない。
夜に家を抜け出し、星を見て、月を見たあのひとときは、きっと僕と彼女の最初で最後の冒険だった。

僕は話し終え、ベッドに横たわる彼女を見る。
僕の声が聞こえるはずがない。

しかし、驚くべき事に、彼女はゆっくりと、その細い腕を僕に伸ばす。
僕の手を握る。

彼女の唇がゆっくりと、静かに動く。
「あ り が と う 」

彼女の手は僕の手を離れ、もうひとつの手と、彼女の胸の前で重ねられる。
彼女は、まるで神に祈っているかのように目を閉じる。

そのとき一瞬、目の前の老女が14歳の少女に見える。
美しく、純粋で、勇敢な14歳の少女。この世のものとも思えないほど美しい。
彼女に恋し、夜に家を抜け出した少年は、この少女に恋をしたのか。

彼女は静かに息を引き取る。
ふと、振り向くと、I氏が泣いている。家族のために全てを犠牲にしてきた少女は死の間際、わずかひとときだけ、賢母でもなく、良妻ではなく、自分の人生を生きる一人の少女に戻ったのだ。

僕は、別れを惜しむ彼女の家族のもとをそっと離れ、家路につく。
そして彼女と、彼女を思い続け、ついには結ばれなかった彼女の思い人のことを思う。